後半生をどう生きるか

今日、誕生日を迎えました。
テーブルに小さな花を飾る以外はいつもと同じ。
ありきたりな普通の一日を過ごしております。
還暦マイナス1歳です。

実はここ数年、還暦までのカウントダウンが近づくにつれ、
これからをどう生きたら良いのか悶々としておりました。
以前のように長期的な目標を立てられずにいたのです。

人生100年時代とは言え、それも健康であればこそ。
せいぜいあと15年、運が良くて20年。先はそれほど長くはない。
仕事はすっぱりやめて家族のために生きたほうが良いのではないか。

しかし、いざ仕事を目の前にすると年齢(リミット)を忘れて、
あれもやりたい、これもやりたい、という気持ちが湧いてしまう。
この湧いてくる好奇心や意欲をどこに向けたら良いのか。
そもそもそんなもの、この年齢で持ってどうするのよ、という思いもありました。

未来への希望を抱いて目をキラキラさせるのは身の程知らずという気がするし、
さりとて自分の限界を知り、その中で無理せず穏やかに暮らすのも物足りない。
この中途半端な感じ、高校生の頃にそっくりです。

誰かが言っていました。これってモラトリアムなのかも、と。
まさに、そうだと思います。

しかし、つい先日です。トンネルの先に細い光が差し込みました。
ふと、思ったのです。

長期的な目標を立てるのではなく、
日々小さなトライ&エラーを繰り返して進んでいけば良い。
遠い先を見据えてチャレンジするのではなく、
明日のために今日のチャレンジを毎日続けていけば良い。

60歳からどう生きるか。

きっと私は、若い頃のように漠然と自分の未来を描けずにいたのですね。
「こんなふうになっていたら素敵だなあ」を思い描けなかった。
だから、日々小さなトライ&エラーを繰り返す。がしっくり来るのだと思います。

5年後、10年後ではなく、明日のために今日を生きる。
明日のためのチャレンジをする。
今は、それが自分なりの60歳からの生き方かなと感じています。

これで60代を迎える準備ができました。
グランドルールは決まったので、あとは前進あるのみ。
自分なりにこれからも歩んで行きたいと思います。

自分へ。お誕生日おめでとう。迷いが消えて良かったね。

怒ると叱るを区別しない

いつの頃からか「”怒る”と”叱る”は違う」という言葉が聞かれるようになりました。

広辞苑では、

「怒る」
1.不愉快不満を感じて気持ちがあらだつ。また、その気持ちを表に出す。腹を立てる。いかる。例)怒ってなぐりかかる。
2.叱る 例)親に叱られる。

と、怒ると叱るを同義語として記述しています。一方、「叱る」は、

「叱る」
(目下の者に対して)良くないことであると強く注意し、厳しく言い聞かせる。例)子どもを叱る

と、その対象や表現方法についても記述しています。

では、アンガーマネジメントではどう捉えているか? アンガーマネジメントでは、怒る”と”叱る” を区別していません。怒ることは、悪いことではないからです。

「怒ると叱るは違う。怒るのではなく叱りましょう」という言葉の背景には、怒る=悪 という思い込みがあります。怒りは、動物が身を守ろうとする時に生まれる感情、大切なものを守りたい時に生まれる感情ですから、怒ることは悪いことではありません。

アンガーマネジメントでは、怒る必要のあることは上手に怒れるようになることをめざします。その対象は、目下の者だけでなく、上司、教師、親、先輩、友人も含みます。そして、怒る必要があり、かつ、それを伝える必要があると線引きしたら、それを相手に上手に伝えます。(伝える必要はないと自分が思うなら、伝えない選択をします。ここでは自分なりの基準で選択することが重要なのです。)

アンガーマネジメントの「怒る」は、相手を限定しませんし、厳しく言い聞かせることもしません。自分の正しさを相手に押し付けるようなことはしないのです。そして、「叱る」よりも、もっと広く、相手を気遣い、しかし、しっかり自己主張します。だから、アンガーマネジメントができるようになると、お互いを大切にし、理解を深め合うことができるのです。

助手席の窓から

免許を取得したばかりの息子が運転する車に乗っている時でした。
助手席の窓から、こんな雲が見えました。鳳凰のようだな、と思いました。

鳳凰雲

あとで、「雲 鳳凰」で検索したら、同じような雲がたくさん出てきました。
何やら運気上昇のサインと書かれたサイトもありましたが、今のところ特に変わったことはありません。
でも、その「変わらない」が、私には何より良いことのように感じています。

平凡に生きるというのは、意外と難しいものだよ。

父がずっと昔に、そう言っていたのを思い出しました。
もうすぐ還暦という今、平凡であることの難しさとありがたみをしみじみと感じています。

私も夫も、年齢相応に暮らしています。
息子もこの春から大学生になり、念願の免許を取得しました。
そして今日、私は息子が運転する車に乗っている。
赤ちゃんだった息子をチャイルドシートに乗せていた日々が、懐かしく思い出されます。
人生は、本当に一瞬ですね。

平凡を全うしたい。
残りの日々を穏やかに日々を生きていきたい。

窓の外に大きく羽を広げた鳳凰を見ながら、ふとそんなことを思いました。

JAMA関東支部スタッフを卒業しました

この3月、日本アンガーマネジメント協会の関東支部スタッフを卒業しました。

6年間、毎月の勉強会や練習会、関東支部総会、JAMAカンファレンスなどの運営スタッフとして、とても楽しく活動させていただきました。

当然のことながら、支部活動は利益を出すものでもなければ、効率を重視するのでも、高いクオリティを求めるのでもありません。できるだけ多くの人が関わって、楽しむ。というところが、文化祭とか学園祭に近いかなあと思いながら、大変楽しく活動しておりました。

楽しく過ごせた要因は色々ありますが、もっとも大きいのは、そこにいる全員がアンガーマネジメントを知っているという点でしょうか。

ただし、みんなが怒りをコントロールできているから円満だった、ということではありません。意見の相違はしょっちゅう。納得できないことも多々ありましたし、腹を立てた事もありました。でも、それを抑える、我慢する、まして相手にぶつけるのではなく、きっと相手は受け止めてくれると信じて、自分の気持ちを伝え切ることができたから、そして気持ちを伝え合った後は、また以前のように共通のゴールに向かって協働することもできたから楽しく過ごせたのではないかと思います。

価値観が違って当然。
怒りがあって当たり前。

それが前提にあるから、怒りを感じる自分を受け入れ、安心してそれを表現することができたのでしょう。

お互いに、自分の価値観、許せるポイントと許せないポイントの境界線を見せ合い、すり合わせる。妥協点を見つける努力をする。

私たちアンガーマネジメントファシリテーターは、「怒らされた」ではなく「怒る」、「言えない」ではなく「言わない」を選択することができます。だから、怒りを持続させることなく、すっきりした気持ちで意見をぶつけ合った相手と、また対等に意見を出し合うことができるのです。

最近、心理的安全、という言葉を耳にしますが、「みんながアンガーマネジメントを知っている」という環境は、私にとってまさに心理的に安全でいられる場所でした。

大人が真剣に楽しむ文化祭のようだった支部スタッフとしての活動。続けても良かったのですが、新しい方にこの活動を体験していただけるように卒業することにしました。一人でも多くの方が、支部スタッフを楽しんでくれると良いなあ。(今後は、参加者として楽しませていただきます!!)

6秒で怒りは消えない

時々、「6秒なんかで怒りが消えるか!」とご立腹されている方をお見かけすることがあります。まったくおっしゃる通りで、6秒で怒りは消えません。6秒で理性が働き始めるのです。

怒りは動物が身を守ろうとする時に生まれる防衛感情で、詳細は省きますが脳の「扁桃体」という部位が関係しています。敵を認識すると0.25秒で扁桃体が働き、アドレナリンが分泌されるなどします。怒りは一瞬で生まれます。

一方、「理性」を司っているのは脳の「前頭葉」という部位で、働き始めるまで3~5秒程度かかることがわかっています。ですから長くても6秒程度待てば「理性的」になれる、というわけです。

え? 6秒過ぎても理性的になれない?
理由は簡単。アンガーマネジメントをしていないからです。

たとえば、レジで前の人が会計が遅い。イライラ。そんな時。「遅いなあ。会計の前にお財布を用意しておけば良いのに。早くしてくれないかなあ」と、頭に浮かぶ言葉がさらなる怒りを呼び、怒りはますます強くなります。

でも、アンガーマネジメントのテクニックを使えば、「遅いなあ。よし、100から3ずつ引いてみよう。100, 97, 94, 91, 88.. あ、自分の番だ」とイライラを「募らせる」ことなくやり過ごすことができます。ちなみにこのテクニックを「カウントバック」と言います。

ただし、これは、怒らないためのテクニックではありません。怒りに任せて取り返しのつかないこと、最悪の事態を防ぐためのテクニックです。

理性は、人間が持つ特性です。
怒っておくか、怒らずにおくか。
命に関わる切迫した状況でないのなら、
6秒待ってから決めても、良いのではないでしょうか。

「怒り」の豊かさを感じる8篇の物語

日本アンガーマネジメント協会が、冊子「アンガーマネジメント ビフォー・アフター」を公開しました。

掲載されているのは8名のAMFTによるアンガーマネジメントに出会う前と後の変化です。私もお声がけいただき、掲載していただきました。

◎アンガーマネジメントに出会うマエとアト – 南美詠子
どうしたら相手の間違いを正すことができるかを考え続けていた。

◎冊子は以下より入手できます。
日本アンガーマネジメント協会 資料請求

「怒り」の豊かさを感じる8篇の物語です。ぜひご一読ください。

無条件の肯定

もう10年も前になるでしょうか。
仕事のことで、とても惨めだと感じながら毎日を過ごしていた時期がありました。

その日は、特にひどい日でした。
打ちのめされるようなことがあったのです。
それでも私は笑顔で過ごしていました。
他の誰でもない自分自身をごまかすために。

「つらいと思います。」

同僚がそう言ってくれました。
私の隣に座って。優しい静かな声でした。

思いがけない言葉に、私は何も言うことができませんでした。
同僚は、私のつらい気持ちに寄り添い、一生懸命に私を励まし続けてくれました。
やがて、私はやっと涙をこぼすことができました。
私は今、とてもつらい、と思うことができました。

ふとした時に、あの日の彼女の優しさを思い出します。
あの日の彼女の声に、私は今も支えられています。

そもそもの考え方が

今朝、息子を駅まで送っていった時のことです。

思っていた以上に道が混んでいて、思わず「間に合うかしら。間に合わないかもしれないわね。次の電車は何分?」と息子に尋ねると、ぼそっと「知らない」と。まるで焦りのないその様子についイラッとして「知らないって…(ムッ)」と言うと、「知ってどうするの。駅に向かう以外、今、取れる行動なんて他にないでしょ」と。

確かに。ふっ、と肩の力が抜けました。ややあって、「歩くほうが速いな。降りるわ。ありがとう」そう言って車を降り、駅に向かって歩いて行きました。後で息子から予定通りの電車に乗れたとLINEがありました。

渋滞にハマってイライラ。という事例をアンガーマネジメント研修の中で使うことがあります。息子の考え方は、まさにアンガーマネジメントの観点から見て、長期的に健康的でした。

一方、私は、我が子が遅刻するかもしれないという不安と焦りからアンガーマネジメントの実践を忘れてしまいました。私は、身内のことになるとつい冷静ではいられなくなる傾向があるのです。渋滞を変えることはできないのに、なんとか間に合わせよう、なんとかしたい、しなければ、という力ずくで物事を思い通りにしたいという考え方がイライラを生むのですね。

息子のように、あまり怒らないタイプの人はベースとなる考え方がすでにアンガーマネジメントなのだな、と思いました。一方、私は考え方がどうしても怒る方、怒る方へと向かってしまいます。だから、私はアンガーマネジメントを意識する必要があるのですよね。

怒りを攻略できずご苦労されているみなさま、安心してください、私もがんばっています。(なんて。)

変えられないものを受け入れる勇気

先月、登壇させていただいたアサーション研修で思いがけないことが起こりました。

研修終了後、ご担当の方が閉会のご挨拶をされた際に、ご自身のことについて、少し深いお話をされたのです。

この研修は今年で4年目。ご担当の方とのお付き合いも4年になります。いつも丁寧にフォローしてくださる全てに行き届いたこの方にも、迷ったり悩んだりされることもあるのかと大変驚きました。そして、アサーションとアンガーマネジメントが役に立っているとお話をされた後(とても嬉しかった)ご自身が心の拠り所にされているという「ニーバーの祈り」を読み上げてくださいました。

私に与えてください。

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気を。

変えることのできないものについて、
それを受け入れるだけの冷静さを。

そして、変えることのできるものと、
変えることのできないものとを識別する知恵を。

※ラインホルド・ニーバー(1892–1971年):アメリカの神学者

 

確かに、私たちは、変えられないものを変えようと必死になることがあります。特に身近な人には、高い理想を求めるあまり(あるいは期待するあまり)変えられない事実から目を背けてしまうことさえあります。頭ではわかっていても、そう思いたくない。それが、葛藤や自己矛盾を生むのです。

実はこの日、私も今まで誰にも打ち明けたことのなかった話をしました。まったく意図していなかったことで気恥ずかしさが残りましたが、講師も受講者もご担当の方も、この会場にいたすべての人がお互いに一人の人間として向き合えたことは得難い経験だったと思います。研修終了後は、ご担当の方といつものように事務的なお話をしながらも心の中でふんわりと柔らかな火が灯ったような気持ちでした。

お帰りになる受講者様の後ろ姿をお見送りしながら、それぞれの職場でアサーションされている様子、相手を気遣いながら自己主張もされている姿を想像しました。どうか、それが現実のものになりますように。

怒って良い。問題はその表現方法。

第94回アカデミー賞授賞式で、ウィル・スミスさんが、プレゼンターのクリス・ロックさんを平手打ちしました。

平手打ちをした理由は、妻の病気による外見を揶揄されたこと、と聞いています。であるなら、いきなり殴るのではなく、断固とした口調、一歩も引かない姿勢で、「妻はとても傷ついている。妻の病気や外見をジョークにしないでほしい」と抗議すれば良かったのではないかと思います。

今、話題の中心は「殴ったことの是非」になっています。ウィル・スミスさんが強く訴えたかったはずの「病気や外見をジョークにして良いのか」については、アメリカ国内ではほとんど話題になっていません。この状況は、ウィル・スミスさんの本意ではなかったはずです。

ふと、北京五輪スノーボードで理不尽な採点をされながら、その怒りを金メダルにつながる素晴らしい演技に昇華させた平野歩選手を思い出しました。

怒りは感じても良いのです。怒ることは悪いことではありません。感じた強い怒りをどう表現するか。問題は、表現方法なのです。