桜が満開になりました。季節は巡るもの。来年もつつがなく、みんなが桜を楽しめまると良いなと思います。
桜と言うと、少し胸の痛い思い出があります。私が、結婚して初めて迎えた4月のことです。
その日、夫は休日出勤で私は家に一人。今なら、たまった家事を一気に片付けてしまうところですが、その時はまだ「妻」「主婦」というより「娘」の感覚のほうが強かったのだと思います。そうだ、父と母に桜餅を買って行こう。そのままお花見に行くのも良いな。そんなことを思い、実家へ向かいました。
しかし着いてみると、家には誰もおらず、ソファーには無造作に脱ぎ捨てられた母のカーデガンが。そのカーデガンは、私が前年に母の日に贈ったものでした。
怒りがこみ上げてきました。「お母さん、ひどい。私があげたカーデガンをこんなに無造作にソファーに置くなんて」そう腹を立てました。
今ならわかるのです。寂しかったから、会えなくて悲しかったから、それが怒りになってしまったということが。楽しみにしていたその期待の分だけ怒りが強くなったのです。一緒に桜餅を食べて、一緒に桜を見て、父と母の娘にもどれることを楽しみにしていたのです。でも、それが叶わなかったから、カーデガンを口実に私は怒ったのです。
その怒りを私は言葉にしました。電話の横にあったメモ用紙に、プレゼントしたものを無造作に扱うなんてひどいと不満を書きなぐったのです。そして、桜餅を置いて帰りました。
後日、父から手紙が届きました。あの日はお天気が良かったので急に思い立ってお母さんと二人で花見に行った、遅くなると道が混んでしまうから、じゃあ急ごうと準備をした時にカーデガンをつい無造作にソファーに脱ぎ捨ててしまった、桜餅がとても美味しかった、ありがとう。悪かったね、ごめんね、お母さんを責めないであげてね。と書かれてありました。後悔でいっぱいになりました。
子どもたちが巣立ち、家には夫婦二人。父も母も、もしかしたら寂しくて出かけることにしたのかもしれません。
短気を起こして帰ってしまわずに、本でも読みながらゆっくり待っていれば、帰宅した両親と一緒に桜餅をいただくことができたかもしれません。何よりも、家にいる私を見たら父も母もどんなに喜んだかしれません。「あら!みーちゃん、来てたの!」そんな父と母の嬉しそうな笑顔と弾むような声が聞こえるようです。それなのに、私は不満の言葉を書き残してしまった。桜餅を二人はどんな気持ちで食べたでしょう。お花見の楽しさは消えてしまったかもしれません。ひどい娘です、私は。
もしあの頃にアンガーマネジメントを知っていて、なぜ自分が腹を立てているのかに気づくことができていたら、自分だけでなく両親もまた寂しさを感じているということに気づけたかもしれません。そして、怒ることよりも、笑顔でいることを選んだに違いありません。
どれほど悔いても過去に戻ることはできない、という現実に打ちひしがれそうになります。
今、窓の向こうに桜が見えています。とても綺麗です。せめてこれからは、家族や友人、出会う人たちと笑顔で過ごしたい。改めてそう思いました。