自分らしさを保ちながらアンガーマネジメントを行う

※本事例はご本人から許可をいただいたうえで掲載しております。

昨年末、ある管理職の女性(Aさん)からご相談を受けました。

1年前ほどからアンガーマネジメントに取り組んでいる。
自分でも驚くほどイライラしなくなってきたが、
ふと、自分が自分でなくなってしまうような不安を感じるようになった。
自分をここまで支えてきたのは怒りだった。
怒りがあったからここまでやってこれた。
自分は本当に怒りを手放して良いのだろうか。

私もアンガーマネジメントを始めて数年経った頃、
同じような不安を抱いたことがありました。

怒りをエネルギーにして生きてきたので、
様々なことに大らかになり生きるのが楽にはなったものの
何か覇気がなくなってしまったように感じ、
こんな自分で良いのだろうか? これは”私”なのだろうか?
そんな疑問や不安を抱いたことが私も確かにありました。

他のクライアント様の中にも、
「何か老け込んでゆくような感じがする」
「自分が矯正されているように感じる」
「抑圧されているように感じる」
と話された方がいらっしゃいました。

改めて、Aさんの事例で線引きを一緒にふりかえってみました。

部下を育成するうえでAさんが大事にしていること。
絶対に譲れないライン。守り抜きたい信念。
どこまで許せて、どこから許せないか。
自分にコントロールできることは何か、できないことは何か。

ふりかえってみると、怒るべき時は怒っていました。表現も適切でした。
怒りをポジティブなエネルギーに変えた体験もお持ちでした。
ただ、その回数が減っただけ。許せることが増えただけのことでした。

「良かった。まだ枯れたわけではなかったのですね。」
「はい。まだまだ、枯れていません。」

と、そんな会話に思わず二人で笑い合ってしまいました。

自分らしさを保ちながらアンガーマネジメントを行うことは、できます。
アンガーマネジメントの成功体験が増えれば、きっと、そう実感できると思います。
Aさんもそう遠くない日に、実感されるのではないかと思っています。

どうしても強い怒りに苛まれてしまう時は

怒りへの対処法を知っていても、
どうしても怒りに飲み込まれてしまうことがあります。

怒りを感じたできごとが、頭の中を占有してしまう。
気がつくと、そのことばかり考えてしまう。
頭に浮かんだ考えはどんどんエスカレートし、
思考はますます歯止めが効かなくなる。

相手は実際よりも悪辣で救いようがなく、
自分の正しさは、時間の経過と共に際立っていく。
相手を制裁したい、責めたい、謝罪を引き出したい。

そんな気持ちが強くなるにつれて、
心から血が噴き出すような痛みを感じることがあります。
怒りの感情は、周りだけでなく、自分の心も傷つけるのですよね。

私たちは生きていくうえで、
自分では決められないこと、変えられないこと、
自分の力ではコントロールできないことがあります。

怒りに苛まれた時、私は、それを思い出すようにしています。

他人は変えられません。
変わってほしいとお願いすることはできても、
人の考え方や行動を変えることはできません。

大切なことは、変えられない前提で、自分にできることは何か、
それをロジックで考えて、一つ一つ、取り組んでいくこと。

私たちは、変えられないことを力づくで変えようとして、
怒りを強くさせてしまうことがあります。

変えられること、変えられないこと。
それを見極める力を経験を通して培っていくことが、とても大切です。

怒りの感情が教えてくれるもの

10年ほど前、まだ私がアンガーマネジメントを伝え始めたばかりの頃のことです。
ある企業でのアンガーマネジメント研修が終わった後、
一人の女性が質問にいらっしゃいました。

飼っているペットがずっと吠えていてうるさくてたまらない。
イライラして仕方がない。どうしたら良いのか。

女性からは、怒りと共に苦しみも伝わってきました。
お話をお聴きすると、深い事情が見えてきました。

そのペットは、義理の両親が飼っていた。
義理の両親は先月、二人一緒に高齢者施設に入居した。
ペットは手放すしかない。そこで長男である夫が引き取ることになった。
家に連れてきた日から、ペットは一日中、吠えている。
思い余って夫に相談すると、夫は「なんとかして」の一言だけ。
ペットは、義理の両親に会いたくて吠えているのだろう。
でも、私にはどうすることもできない。どうしたら良いのか。

そこまでお話をされて一息ついた後、
「でも、そのペットが憎いわけではないのです。」
そうおっしゃって、ご自身で気づかれたようでした。

女性は、ペットを思う気持ちをお持ちでした。
会いたい人に会えない寂しさをなんとかしてあげたい。
でも、どうしたら良いのかわからない。
夫に、この気持ちをわかってほしい。夫にも一緒に考えてほしい。
それが、その女性の本当の気持ちでした。

強い怒りは、私たちの本当の気持ちを覆い隠してしまうことがあります。

夫も、両親が施設に入ったことで寂しさを感じているのかもしれない。
週末に時間を取って夫と話し合ってみたいと思う。

女性は、そのようにお話をされていました。
質問にいらしたときとはまるで違う、穏やかな表情でした。

怒りと正面から向き合うと、心の奥にある本当に気持ちが見えてくることがあります。
怒りは、たくさんの気づきを与えてくれる感情なのだと、
私はその時、初めて知ったのです。

桜餅とカーデガン

桜が満開になりました。
季節は巡るもの。来年もつつがなく、
みんなが桜を楽しめまると良いなと思います。

桜と言うと、少し胸の痛い思い出があります。
私が、結婚して初めて迎えた4月のことです。

その日、夫は休日出勤で私は家に一人。
今なら、たまった家事を一気に片付けてしまうところですが、
その時はまだ「妻」「主婦」というより
「娘」の感覚のほうが強かったのだと思います。

そうだ、父と母に桜餅を買って行こう。
そのままお花見に行くのも良いな。
そんなことを思い、実家へ向かいました。

しかし着いてみると、家には誰もおらず、
ソファーには無造作に脱ぎ捨てられた母のカーデガンが。
そのカーデガンは、私が前年に母の日に贈ったものでした。

怒りがこみ上げてきました。
「お母さん、ひどい。私があげたカーデガンを
こんなに無造作にソファーに置くなんて」そう腹を立てました。

今ならわかるのです。
寂しかったから、会えなくて悲しかったから、
それが怒りになってしまったということが。
楽しみにしていたその期待の分だけ怒りが強くなったのです。
一緒に桜餅を食べて、一緒に桜を見て、
父と母の娘にもどれることを楽しみにしていたのです。
でも、それが叶わなかったから、カーデガンを口実に私は怒ったのです。

その怒りを私は言葉にしました。電話の横にあったメモ用紙に、
プレゼントしたものを無造作に扱うなんてひどいと不満を書きなぐったのです。
そして、桜餅を置いて帰りました。

後日、父から手紙が届きました。
あの日はお天気が良かったので急に思い立ってお母さんと二人で花見に行った、
遅くなると道が混んでしまうから、じゃあ急ごうと準備をした時に
カーデガンをつい無造作にソファーに脱ぎ捨ててしまった、
桜餅がとても美味しかった、ありがとう。
悪かったね、ごめんね、お母さんを責めないであげてね。
と書かれてありました。後悔でいっぱいになりました。

子どもたちが巣立ち、家には夫婦二人。
父も母も、もしかしたら寂しくて出かけることにしたのかもしれません。

短気を起こして帰ってしまわずに、本でも読みながらゆっくり待っていれば、
帰宅した両親と一緒に桜餅をいただくことができたかもしれません。
何よりも、家にいる私を見たら父も母もどんなに喜んだかしれません。
「あら!来てたの!」そんな父と母の嬉しそうな笑顔と弾むような声が聞こえるようです。
それなのに、私は不満の言葉を書き残してしまった。
桜餅を二人はどんな気持ちで食べたでしょう。
お花見の楽しさは消えてしまったかもしれません。ひどい娘です、私は。

もしあの頃にアンガーマネジメントを知っていて、
なぜ自分が腹を立てているのかに気づくことができていたら、
自分だけでなく両親もまた寂しさを感じているということに気づけたかもしれません。
そして、怒ることよりも、笑顔でいることを選んだに違いありません。
でも、どれほど悔いても、もう二度と過去に戻ることはできません。

今、窓の向こうに桜が見えています。とても綺麗です。
せめてこれからは、家族や友人、出会う人たちと笑顔で過ごしたい。
改めてそう思いました。

今できること

能登半島地震に関連した義援金詐欺などが出ているそうです。
募金の際はアドレスのドメインを確認されるほうが良いかもしれません。

たとえば以下のサイトはドメインが「.lg.jp」です。
「lg」は「local government(地方自治体)」の略で、
取得できるのは地方自治体のみ。企業や個人は取得することはできません。
こちらのサイトの情報でしたら間違いはないかと思います。

令和6年能登半島地震に係る災害義援金の受付について
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/suitou/gienkinr0601.html

1月1日を迎えた時、私は例年のように過ごしていました。
「いつ何があるかわからない」と言葉にすることはありましたが、
やはりそれは言葉だけで、心の奥底では穏やかな元旦を信じていたように思います。

心が打ち砕かれているように感じている方も多いと思います。
できることがあれば、と思っています。

そもそもの考え方が

今朝、息子を駅まで送っていった時のことです。

思っていた以上に道が混んでいて、思わず「間に合うかしら。間に合わないかもしれないわね。次の電車は何分?」と息子に尋ねると、ぼそっと「知らない」と。まるで焦りのないその様子についイラッとして「知らないって…(ムッ)」と言うと、「知ってどうするの。駅に向かう以外、今、取れる行動なんて他にないでしょ」と。

確かに。ふっ、と肩の力が抜けました。ややあって、「歩くほうが速いな。降りるわ。ありがとう」そう言って車を降り、駅に向かって歩いて行きました。後で息子から予定通りの電車に乗れたとLINEがありました。

渋滞にハマってイライラ。という事例をアンガーマネジメント研修の中で使うことがあります。息子の考え方は、まさにアンガーマネジメントの観点から見て、長期的に健康的でした。

一方、私は、我が子が遅刻するかもしれないという不安と焦りからアンガーマネジメントの実践を忘れてしまいました。私は、身内のことになるとつい冷静ではいられなくなる傾向があるのです。渋滞を変えることはできないのに、なんとか間に合わせよう、なんとかしたい、しなければ、という力ずくで物事を思い通りにしたいという考え方がイライラを生むのですね。

息子のように、あまり怒らないタイプの人はベースとなる考え方がすでにアンガーマネジメントなのだな、と思いました。一方、私は考え方がどうしても怒る方、怒る方へと向かってしまいます。だから、私はアンガーマネジメントを意識する必要があるのですよね。

怒りを攻略できずご苦労されているみなさま、安心してください、私もがんばっています。(なんて。)

変えられないものを受け入れる勇気

先月、登壇させていただいたアサーション研修で思いがけないことが起こりました。

研修終了後、ご担当の方が閉会のご挨拶をされた際に、ご自身のことについて、少し深いお話をされたのです。

この研修は今年で4年目。ご担当の方とのお付き合いも4年になります。いつも丁寧にフォローしてくださる全てに行き届いたこの方にも、迷ったり悩んだりされることもあるのかと大変驚きました。そして、アサーションとアンガーマネジメントが役に立っているとお話をされた後(とても嬉しかった)ご自身が心の拠り所にされているという「ニーバーの祈り」を読み上げてくださいました。

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私に与えてください。

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気を。

変えることのできないものについて、
それを受け入れるだけの冷静さを。

そして、変えることのできるものと、
変えることのできないものとを識別する知恵を。

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確かに、私たちは、変えられないものを変えようと必死になることがあります。特に身近な人には、高い理想を求めるあまり(あるいは期待するあまり)変えられない事実から目を背けてしまうことさえあります。頭ではわかっていても、そう思いたくない。それが、葛藤や自己矛盾を生むのです。

実はこの日、私も今まで誰にも打ち明けたことのなかった話をしました。まったく意図していなかったことで気恥ずかしさが残りましたが、講師も受講者もご担当の方も、この会場にいたすべての人がお互いに一人の人間として向き合えたことは得難い経験だったと思います。研修終了後は、ご担当の方といつものように事務的なお話をしながらも心の中でふんわりと柔らかな火が灯ったような気持ちでした。

お帰りになる受講者様の後ろ姿をお見送りしながら、それぞれの職場でアサーションされている様子、相手を気遣いながら自己主張もされている姿を想像しました。どうか、それが現実のものになりますように。

悲しい気持ちの時は

ウクライナ情勢に胸が痛みます。
憤りがある時はまだ良かった。今は無力感に苛まれ、ただ悲しい。
募金も署名もしたけれど何も変わらない。他に何ができるのだろう。

最近は気づくと気持ちが塞ぎ、ふと泣いてしまうこともあります。
同じような方、いらっしゃるのではないでしょうか。

ウクライナの方たちのためにできることを探しながら、
自分の心も守らなくてはいけませんね。

空を見たり、花を植えたり。
そういえば母は、悲しいことがあると花を植えていました。
悲しみが笑顔になるように。

仕事に集中して、身体を動かして。
家事も元気にこなして、日常をつつがなく過ごす。

つらかったらテレビをつけなくても良いと思います。
自分の心が負けてしまいそうだったら、逃げて良いと思います。
現実から目を逸らすことに罪悪感を覚えなくても良いと思います。

いつもそばに

明け方、亡き母の夢を見ました。

大きな駅の改札を抜けると、そこに母が立っていました。
(母は亡くなっている。これは夢だ。)
そう思いながら、母の元に急ぎました。
母はとても綺麗でした。微笑んでいました。
「お母さん、とっても綺麗。」
母にそう言うと、少しずつ自分が目覚めていくのを感じました。
(ああ、まだ夢の中にいたいのに。起きたくないのに。)
やがて、もう目覚めてしまうという時、母の声が聞こえました。

「お母さんはいつもみーちゃんのそばにいるよ」

そこで、はっきりと目が覚めました。
私は勢いよく起き上がると、冷たい水で顔を洗い、さっと着替えました。

2021年は今日で終わり。明日から新しい年が始まります。
良い年にしよう。家族や友人や仲間と笑い合える一年にしよう。
そう思いました。

ちょっと待ってね

数年前から鉢割れ猫を飼っています。
飼うことに決めたのは夫と息子です。

この猫が、遊ぶのはママ(私)と決めているのか、
遊びたくなると猫じゃらしをくわえて私のところに来て
遊べ遊べ(にゃーにゃー)と訴えてきます。

忙しい時は本当に困ってしまうのですが、
それ以上に罪悪感を引き起こされるのが辛くてたまりません。

「ちょっと待ってね」

猫に向かってそう言うのですが、実はこの言葉、
かつて幼かった息子によく言っていた言葉なのです。

当時の私は仕事最優先で、息子に背を向け、常にパソコンを見ていました。
(Web制作や講義の資料作成を自宅の仕事部屋でしていた。)

ちょっと待ってね、の言葉から1時間以上が経過することもしばしばで、
息子には本当にかわいそうなことをしました。

こうして文字を打っている今も、罪悪感がとめどなく溢れてきます。

この罪悪感のせいでしょうか。息子や夫が帰宅すると、
「あなたたちがもっとたくさん遊んであげていれば…」などと
不満をぶつけてしまいます。完全に八つ当たりですね…。

この罪悪感をなくすには、できることをするしかない。
息子に美味しいもの用意して、猫とは遊ぶ。それしか思いつきません。

今も、部屋の外から、がさごそと音が聞こえてくるので
猫じゃらしを持ってくるつもりかもしれません。

チクッ。胸が痛みます。
気が済むまで、遊んであげようと思います。