父の声

仕事で落ち込んでいた夜。
夢の中で、私を励ます懐かしい声が聞こえてきました。

声の主は、入院中の父。
今はもう意志の疎通もできない父がベッドから起き上がり、
元気だった頃の表情と声で、力強く私を励ましてくれました。

亡くなったはずの母も、父の傍にいました。
「お父さん、すっかり元気になったのね」
そう母に言いましたが、母は笑顔のまま何も言ってくれません。
父に目を戻すと、もう父は眠っていました。

自信を持とう、だってお父さんとお母さんの子なんだから。
そんなことを思いながら、目が覚めました。泣いていました。

父も母も、見守ってくれている。
だから、自信を持って。自分らしくがんばろうと思います。

なぜ、それを選んだか

10月から産業カウンセラー養成講座を受講しています。

初日、作文の宿題が出ました。テーマは「もっとも心に残っている少年・少女時代の思い出」です。何を書こう。ふと、いくつかのエピソードが頭に浮かびました。

・私の幸福感の原点(父母の間で昼寝をした幼い日のこと)
・裏表のある大人を初めて見た時のこと
・子どもたちだけで遠出をした日のこと
・初めて「悠久の時」を感じた日のこと
・時間を忘れて読書した時のこと
・親に初めて申し訳ないと感じた時のこと

一瞬のうちに様々なエピソードが浮かびましたが、なんとなく、気づいたらキーボードを叩く指が、10歳の時に東京から埼玉に転居した時のことを打ち始めていました。

産業カウンセラー養成講座では、まず自己理解を深めることから始めます。講師からは「数あるエピソードの中からなぜそれを選んだか、です」と話がありました。

では、私は、なぜこのエピソードを選んだのか。

実は、この話を一度、母にしたことがあります。本当は東京に帰りたかった、何度も何度も『おかあさん、東京に帰りたい』と言おうと思った、父母の部屋のドアの前まで何度も行った、毎晩、泣いた。そう打ち明けました。

母は、あなたたちを犠牲にしてしまった、と言いました。母も、毎晩泣いていたそうです。転居は、父の一存でした。自分は長男だから親と一緒に暮らすのが当たり前だ、と。母の中にも、親の面倒は長男が見るべきという価値観があったのでしょう。それを否定するなど、まして拒絶するなど思いもしないことだった。ただ、我慢するしかない、受け入れるしかしかない。そう思っていたそうです。

父も、今思えば、自営から会社員になり、辛いこともあったでしょう。それでも父は耐えた。父もまた、古い価値観で自分自身を縛っていたのでしょう。

古い価値観に縛られ、家族はもちろん、自分の意志すらも確認することなく決断をした父。そして、それを黙って受け入れた母。適応するしかなかった私や妹。それでも、1年後には、家族で笑い合っていました。

今なら、もっと別の選択肢があったでしょう。母も、私も、妹も、言いたいことを言えたでしょう。でも、昭和40年代の我が家の価値観では、父の言うことに従うしかなかったのです。

私がこのできごとを選んだ理由。それは、今もまだ分かりません。今もわからないから、選んだのかもしれません。

 


産業カウンセラー養成講座(2021年11月開講・浦和水曜教室)
宿題「もっとも心に残っている少年・少女時代の思い出」

 小学4年生で転居するまで、帰宅すると家にはいつも両親がいました。自営をしていたからです。転居後は、父方の祖父母と同居しました。父の妹たちが結婚して家を出たため、長男である父が、私たちと共に実家に戻ることにしたのです。

 ずっと後になって、これは父の独断であったことが分かりました。母にも、祖父母にも相談はなかったそうです。父はひどく真面目な性格なので、おそらく「長男は両親の面倒を見るべき」という固定観念があり、父はそれをなんとしても守らなければと、ある意味、必死の思いがあったのでしょう。

 転居、転校について、両親から説明を受けた記憶はありません。少しずつ家具が運ばれていく様子、両親の会話の端々から、自分はおじいちゃん、おばあちゃんの家に引っ越すのだな、と感じていました。

 転居後、私の心の中は、まるで瓦礫と砂埃にまみれた廃墟でした。転居前は、帰宅すると両親がいたのです。学校での出来事を話したり、一緒に宿題をしたり。心はいつも青く光る海のように豊かでした。それが、転居後は、家に帰ると、それまであまり接する機会のなかった祖父母がいる。両親は自営をやめ、それぞれ会社勤めをするようになっていました。朝は早く、夜も遅い。両親との会話は激減していました。まだ幼かった妹は環境の変化にすぐ慣れましたが、私にはどうしても、そこが自分の家のようには感じられませんでした。何度も何度も、母に「前の家に戻りたい。」と言おうと思いました。でも、言えなかった。活発で、積極的で、言いたいことは何でも言える私なのに。泣くほど、思い詰めていたのに。なぜ言わなかったのか、今でも理由は分かりません。

 しかし、やがて、私は適応していきました。祖父母がいる家にも慣れていきました。外で働くようになった母は以前よりもずっと明るくなり、そんな母を父はいつも愛おしそうに見ていました。そして、それが、いつしか私にとっての日常になりました。

 過去を振り返った時、あれはつらかった、あれは楽しかった、などと評価することがあります。私の過去の出来事は、ほぼすべてラベリングできます。しかし、この転居・転校だけは、自分の中でまだ落とし込めていません。ただ、「まだ何もわからない10歳の子どもだったのに。私はかわいそうだったな。」そう思うだけです。

 少女時代の思い出として、もっとも心に残っていることは、唯一、私の中で感情の整理ができていない出来事です。(1,000文字)

命を磨く

久しぶりの抜けるような青空。

母を亡くしてから、母に会いたくて、母の声が聴きたくて、
あちらに行ったら会えるのかしらとぼんやりと考えたりすることもあって…。

でも、青空を見ていたら、ふと、
自分の命は天からお預かりしているものなのだから、
きちんとまっとうした上でお返ししなくては。
そんな考えが頭に浮かびました。

ここまで自分なりに一生懸命に生きてきたつもりです。
だから、いつ寿命が来ても悔いはない。そう思っていました。

でも、それは違う、と感じました。
命をもっと丁寧に扱わなくては、と。
そして、命をもっと磨いていきたい、と思いました。

私の残りの人生は、あとどれくらいなのか。
どれだけであっても、その瞬間まで、丁寧に生きていきたいと思いました。

母を見送った夜に

胸騒ぎがして、母の病院に向かった日。日曜日の午後4時頃。

前を走る車のナンバーが、母の誕生日でした。
病院の近くまで、ずっと前を走っていました。
早く母の元へ。
そう思っているのに、不思議と追い越そうとは思いませんでした。

「みえこ、来たよ」と言うと、微かに頷いて、それきりでした。
病院に着いて数時間後、母を見送りました。

色々なことを終えて、帰途に着く時。
私の前を走る車のナンバーは、やはり母の誕生日でした。
その車は、ほどなくして左折してしまったのですが、
すぐにまた、母の誕生日のナンバーの車が、私の前に入りました。
悲しいはずなのに、車中、ずっと暖かいものに包まれているような
とても不思議な気持ちでした。

その夜、私は、母の写真をデータ化し、母の写真集を作っていました。
何かせずにはいられなくて。

もうすぐ午前3時になろうかという頃、突然、マウスの動きが悪くなりました。
別のマウスに変えてみてもダメ。おかしいな。そう思いましたが、
なんとなく母が「もういい加減にしなさい!身体を壊すから!寝なさい!」
と怒っているような気がして、パソコンの電源を落としてベッドに入りました。
マウスの動きが悪かったのはその時だけで、それ以降は一度もありません。

そして、翌朝。
リビングのテレビが突然ついて、音楽が大音量で流れてきました。

別れることはつらいけど
仕方がないんだ君のため

急いで、スイッチをオフにしました。
頭の中で、続きを歌っていました。

別れに星影のワルツを歌おう
冷たい心じゃないんだよ
冷たい心じゃないんだよ

あ、と思いました。
「冷たい心じゃない」は、私と母の間にあるキーワードの1つなのです。

母は、ずっと私のそばにいてくれていたのではないかしら。
そんなふうに感じました。

車のナンバーも、マウスも、テレビも、その時限りで、以降はありません。
不思議なできごと。その不思議に、私の心は、とても、とても癒されました。

悲しくて悲しくてたまらないけれど、
それはとても暖かく、柔らかい悲しみなのです。

悲しみを暖かいものに変えてくれた母。
きっとこれは、母が、私にくれた最後の贈り物。
この贈り物がなかったら、私はきっと
母を助けられなかった後悔と罪悪感に苛まれていたでしょう。

いつかきっと、また母に会える。
だからそれまで、一生懸命、生きる。母のように。

新しい服

4年かかりました。書けるようになるまで。

いくつかのブログを同時進行で運用しています。そのうちの1つを、今日再開させました。前回の投稿は2016年4月5日。4年ぶりです。4年間、どうしても書けませんでした。理由は、14年お世話になったある職場の退職です。

自分から言い出しました。新しい服を着たくなったのです。

もう何年も前から、古い服、身体に合わない服を無理に着ているような感覚がありました。いっそ脱いでしまいたい。新しい服に着替えたい。衝動的に、そう感じることもありました。でも、迷いながらも、私はその服を着続けました。ライナスの毛布と同じです。自分の肌に心地良く馴染んで手放せなかったのです。愛着も執着もありました。精神的に依存もしていました。

ある日、きっかけを得て退職を決めました。しかし、脱いでしまいたいとさえ思ったその服は、いざ脱ごうとすると肌にぴったりと吸着していて、剥がす時に血が流れるような痛みを覚えました。

本当につらかった。後悔しました。
私はその職場が本当に好きだったのです。

でも、剥がし続けました。剥がし続け、新しい服を身に付けました。新しい仕事。新しい環境。新しく出会う人々。やがて血は止まり、今は、新しい服の着心地を楽しんでいます。

心が傷ついた時、癒える時間は人それぞれ違うと思いますが、私の場合は、4年でした。

2020年を迎えて

2020年を迎えました。
今年は東京五輪があります。

私は、前回の東京オリンピックの年、1964年生まれです。
母は産院のベッドで眠る生後間もない私と一緒に、
東京オリンピック開会式の様子をテレビで見たそうです。

堂々と歩く日本選手団の姿に、
自分が母親になったという思いも重なり、
胸がいっぱいになったと母はよく話していました。

さて、昨年は、アンガーマネジメント研修登壇のご縁を
たくさんいただきました。身に余る光栄でした。
ご依頼いただきましたみなさま、誠にありがとうございました。

また、アンガーマネジメント入門講座にいらしてくださったみなさま、
足をお運びくださり、本当にありがとうございました。

アンガーマネジメントが少しでもみなさまのお役に立てますことを
心より願っております。

私は今年も、アンガーマネジメントをお伝えしてまいります。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

認定心理士に

今日、公益社団法人 日本心理学会から「認定心理士認定証」が届きました。同封されていた「倫理規程」や、学会誌「心理学ワールド」を読んで、「心」に関する研修に登壇する人間としてのスタートラインにようやく立てた、そんな気持ちになりました。

認定心理士には以下の科目で申請しました。すべて放送大学での履修です。

心理学概論(’12) 
教育心理学概論(’14) 
心理学研究法(’14) 
心理統計法(’17) 
心理学実験1 
心理学実験2 
心理学実験3 
心理検査法基礎実習
認知心理学(’13) 
錯覚の科学(’14) 
生理心理学(’18) 
学力と学習支援の心理学(’14) 
発達心理学概論(’17) 
臨床心理学演習A 
臨床心理学演習B 
心理臨床の基礎(’14) 
心理臨床とイメージ(’16) 
心理カウンセリング序説(’15) 
認知行動療法(’14) 
乳幼児・児童の心理臨床(’17) 
思春期・青年期の心理臨床(’13) 
中高年の心理臨床(’14) 
精神分析とユング心理学(’17) 
人格心理学(’15) 
社会心理学(’14) 
交通心理学(’17)

アンガーマネジメントを伝えるにあたり、この知識は必ずしも必要ではありません。では、なぜ学んだのか? 理由は、知りたかったから。ただ、知りたかったから学んだのです。

パソコンインストラクター時代も同じことをしていました。WordやExcelを教えるのに、パソコンを解体してパーツの名前や働きを知る必要はありません。でも、私は何がどうしてこうなるのかを知りたかったのです。だから、パソコンを解体したり、逆に組み立てたりしました。私が心理学を学んだのも、それと同じです。何がどうなっているのか、心のしくみを知りたかった。それだけなのです。

今、やっとスタートラインです。これからも自分自身の怒りを通して、「怒り」と「心」について、深く考えていきたいと思います。55歳。まだまだ、これからです。

できることを探す

母が腰椎圧迫骨折で入院しています。今月初め、6度目の手術を終えて退院した翌日でした。痛み、吐き気、目眩。「もう堪忍してもらいたい」母から聞く、初めての弱音です。

この6年。母は、誰をも憎まず、何をも恨まず、現実を受け入れ、出来ることに取り組んで朗らかに生きてきました。「1日1つ。今日は布団をあげられた。今日は苗に水をやれた。そう思うと、よし!って元気が出るのよ」

それなのに、なぜ母をこんな目に遭わせるのか。神様がいるなら、胸ぐらをつかんで問い質したい。私は今、神様に猛烈に怒りを感じています。

怒りは、エネルギーになります。母の病気は、私の力で治すことはできません。でも、苦しみを和らげる方法が何かあるはず。私は、怒りのエネルギーを使って母を癒す方法を探したい。負けないぞ。

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剛しいらさんの訃報に接し

昨日、作家の剛しいらさんが2018年4月1日に逝去されたことを知りました。

剛しいらさんは、私が発行していた文芸同人誌で、
1996年から1997年の間、8つの短編小説を投稿してくださっていました。

  • 幸福な時代の不幸な子供(1996年冬・5号)
  • 僅かの勇気(1996年春・6号)
  • 老犬(1996年夏・7号)
  • たいくつ(1996年秋・8号)
  • 幇間(1997年冬・9号)
  • 長い一日(1997年春・10号)
  • 押し入れ(1997年夏・11号)
  • 柘榴(1997年秋・12号)

主人公は、性別も年齢も職業も様々でしたが、
どの人物もとてもおもしろく魅力的でした。

12号を発行した後だったと思います、お電話をいただいて、
作家としてデビューすることになったので退会したい、
自由度の高いジャンルで十代の男の子を主人公にした小説を書く、
そうおっしゃっていました。

剛しいらさんと二度ほどお会いしたことがあります。
優しい方。けれど、時々眼光が鋭くなる。
洞察力の鋭い方なのだろうなと思いました。

私は当時30歳をいくつか過ぎたところ。
しいらさんは、一回りほど上とおっしゃっていました。
きっと、しいらさんから見た私は、
人の心の機微がまるでわかっていないお子さまに見えたでしょう。
年齢差は10歳程度でしたが、いざお話をしてみると年齢以上の差を感じました。

今も変わらずにご活躍されているのだとばかり思っていました。
またいつかお会いできると信じていました。
まさか、亡くなられていたなんて。

当時は、会員から手書きの原稿を郵送していただき、
私がそれをワープロ専用機で1つ1つ打ち込み、印刷・発行していました。
ですから、あるのは紙媒体のみ。それも手元の1冊しかありません。
データ化しなくては。

2017年を振り返って

2017年も、たくさんのご縁をいただき、アンガーマネジメントをお伝えすることができました。また、日本アンガーマネジメント協会の公募案件にも初めて採用していただき、埼玉県長瀞町にてアンガーマネジメントをお伝えいたしました。アンガーマネジメントをぜひ今後にお役立ていただければ、と願っております。

今年は、入門講座を月3回ペースで開講いたしました。受講者数は、毎回数名です。ビジネスとして成立はしていません。それは、研修講師として恥ずべきことなのでしょう。努力不足の面もあるのだと思います。しかし、私は、これからも90分のアンガーマネジメント入門講座を定期的に開講し続けます。90分で不安から安堵の表情に変わる、そこに意義を感じるからです。

一口に「怒り」と言っても、強さも、深さも、本当に人それぞれの「怒り」がありました。書籍でもない、動画でもない、生身の人間同士で同じ空間で怒りについて語り合うことの意義深さをこの2017年は非常に強く感じました。

来年は、週1回のアンガーマネジメント入門講座開講が目標です。夜間開催を増やし、仕事帰りに受講できるよう準備をしたいと思います。アンガーマネジメントを学ぶと、自分の怒りを知ると、生き方が変わります。来年、お会いできますことを楽しみにしております。